渡邉大輔 連載〈イメージの進行形〉完結!

早稲田文学のウェブコンテンツ用ブログでお知らせしていました、渡邉大輔さんの連載〈イメージの進行形〉が先月完結しました。
こちらからご覧いただけます。この機会にまとめ読みをどうぞ!




ソーシャル・メディアは映画をいかに変え、どんな未来を可能にするか?


Twitterfacebookで知った動画をYouTubeで観る。
ニコニコ動画で話題のn次創作の元になった作品を観る。
お気に入りのアイドルや歌手のUSTライブを観ながら書き込みをする。
今、映画と呼ばれるものの外で、私たちは無数の映像に触れています。いわゆる映画にしても、トレーラーをネットで観て、関連動画を漁り、評判を調べてから観に行くことが多いでしょう。
「ディジタル化とネットワーク化は映画を変える」――時に映画史に到来した「新たな革命」とも呼ばれ、誰もが期待し、憂慮しもする、そんな予感。それは、作品をたくさん保存でき、好きな時間と場所で視聴でき、作品について語れる人を見つけやすくなって、便利さを増すことだけを指すわけではありません。それは映画の見方、流通の仕方、作られ方を変えること、つまり「映画」そのものを変えること、なのです。


そのとき、映画とそれ以外の映像の違いはどこにあるのでしょう? とりわけ、自明とも思える区別を、映画自体がすすんで切り崩している場合は?
たとえば、ブライアン・デ・パルマ監督『リダクテッド 真実の価値』。イラク戦争ただ中の米軍基地の監視カメラの記録映像と、米兵やイラク過激派たちが撮影したビデオ動画などを編集していくこの作品はどうか。
あるいは、入江悠監督『劇場版 神聖かまってちゃん ロックンロールは鳴り止まないっ』。すでに大量に流通する映像とコミュニケーションの上に、フィクションを成り立たせたこの作品はどうか。
「それは自分の知る映画とは違う」と言う人に、渡邉さんは、私たちが知るより遥かに猥雑で魅惑的な映画の歴史を教えてくれます。サイレントの時代に、活動弁士によって毎回物語が書き換えられ、ディズニーランドを思わせるアトラクションに満ち、観客たちが大騒ぎして楽しんでいた映画を。さらにまた、虚構と現実の区分を溶解する、『クローバーフィールド/HAKAISHA』『第9地区』などの「擬似ドキュメンタリー」の祖先としてのオーソン・ウェルズによる犯罪メロドラマを。
映画史を追うことで、映画がつねに外部にある映画以外の要素をとりこみ、あるいは排除し、またとりこんで、そのスタイルを激変してきたことがわかるでしょう。そして今まさに起きている変化がその延長としてあり、映画と映画以外の映像の差を、作品とその外部の差を限りなく薄くしていくものだということも。
しかし、現在与えられている映画を語る私たちの言葉は、映画を撮る私たちの視線は、そんな映画の「現在」に追いついているでしょうか?


だからこの論考があつかうのは、狭義の映画ばかりでなく、テレビのバラエティ番組や報道記録映像、携帯電話で撮られた動画、拡張現実(AR)アプリにまでわたります。日常的に撮影され、視聴され、コミュニケーションと一体となって拡散する映像とそれを可能にする環境を「映像圏」と渡邉さんは呼んでいます。
ここで行われるのは、観客の身体という視点から草創期の映画と現代のアダルトビデオを結びつけ、ニコニコ動画の嘘字幕シリーズにコミュニケーションが紡ぎだす美学を見出し、フレデリック・ワイズマン土本典昭小川紳介の作品群、松江哲明監督『童貞。をプロデュース』、吉川友主演『きっかけはYOU!』を同時に論じること。つまり現代の映画と映像の文化を言祝ぎ、それをとらえる批評を更新することなのです。


「イメージの進行形」と題するこの論考は、スマホを使いこなし、分割アップされた映画を観て、MAD動画に笑い、シネコンで暇をつぶす、私たちの「現在」から紡がれた、ほぼ初の本格的映画論です。ここに「現在」を語る言葉と「未来」を創る思考があります。



▼第6回−後篇(最終回):「映像圏の「公共性」へ 後篇」
watanabe_daisuke06C.pdf 直(PDF 2012.2.22 UP)  


▼第6回−中篇:「映像圏の「公共性」へ 中篇」
watanabe_daisuke06B.pdf 直(PDF 2012.1.23 UP)
このテーマで思いだされるのが、2010年の尖閣諸島中国漁船衝突映像流出事件。YouTubeニコニコ動画などが中心となる今の映像システムでは、だだ漏れ的オープンさが優勢になり、時に、オフィシャルである国家がその後を追いかけることになります。
動画サイトへの違法アップロードを思いだしてもいいでしょう。
これまでオフィシャルなものが制限していた領域が、漏洩し拡散しているわけです。この流れは不可逆で、これからも広がりつづけるでしょう。そこで新たに、考える枠組みが必要なのです。

他方、やはり国家の枠を超えたグローバル資本主義は、社会の流動性を増し、ワーキングプアと呼ばれるような、「声なき人びと」を多く生み出してきました。それが少しずつ問題にされるようになってきて、たとえば、前篇で扱った富田克也監督『サウダーヂ』はそこに踏みいる作品でした。
とはいえ、この状況はさらに広まるばかり…。
果たして、これからの公共性はどうなるのか?
前篇で取り上げたVPF問題にもはっきりと通じるこの問題に、単純な左翼的対抗軸とはまた違った、文化論的視角が、いま、求められているといえるでしょう。

この中篇では、松江哲明監督『童貞。をプロデュース』を重要な作品として見ていきます。
本来の意味を超えて、社会的な意味をもちはじめた童貞ですが、そこにどう関わるのか? 童貞から見る公共性、必見です。


▼第6回−前篇:「映像圏の「公共性」へ 前篇」
watanabe_daisuke06A.pdf 直
(PDF 2011.12.21 UP)
一年半にわたって続いたこの連載も、最終回を迎えます。
その間には、ニコニコ動画ツイッターの普及と盛り上がりがあり、他方で社会的な事件としては、尖閣諸島中国漁船衝突映像流出事件、アラブの春、そして3・11東日本大震災などがあり、ネットワーク上を大量の画像・動画が流通し、これまでにないインパクトを与えつづけました。その意味で、一連の流れと並走して、ネットワーク上の動画の効果と美学を分析してきたこの連載は、とても重要な転換点を記していると言えるでしょう。

そこで、最終回のテーマは「映像圏の公共性」。
上記の出来事を思い起こせばわかる通り、この数年で、インターネット登場以降に変わりつづけてきた「公」のあり方がさらにドラスティックな変容を遂げた印象があります。それでは、映像(圏)から公共性をどのように見定めることができるのか? 具体的には、いま話題のVPF問題から考えていきます。

VPF(Virtual Print Fee)とは、近年急速に拡大している「ディジタルシネマ」の映画館への普及と配給・上映をより円滑に行うために、アメリカの映画産業で考え出された新しい映画配給・興行の枠組みです。詳しくは本論に記されていますが、これからの映画の製作・消費のあり方を大きく変えていくような枠組みです。そこにどのような現在と未来が見えるのか?
3度に分けてお送りする最終回の前篇では、この問題を詳しく論じます。扱う映像作品は、富田克也監督「国道20号線」「サウダーヂ」です。


▼第5回:「フィルム・ノワールの現代性」
watanabe_daisuke05.pdf 直(PDF 2011.9.17 UP)
前々回は、今ぼくたちが観ている物語映画のフォーマットをつくったといわれる古典的ハリウッド映画(1917-1960年)と、それ以前に製作された初期映画(1894-1907年)について見てきました。
そこで今回は、古典的ハリウッド映画の隆盛と崩壊の傍らで製作され、現代につながるひとつの流れとなった犯罪メロドラマの作品群、すなわちフィルム・ノワールを扱います。

フィルム・ノワールは、その多くが、レイモンド・チャンドラーなどの同時代のハードボイルド探偵小説を原作としています。タフな探偵である主人公が、蠱惑的なファム・ファタール(運命の女)に翻弄される物語。チャンドラーの小説(あるいはずっと後につくられた村上春樹世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』)を思い浮かべてもらえればわかるとおり、ハードボイルド小説は探偵の一人称を採用しています。それらを原作としたフィルム・ノワールも当然、一人称=主観ショットを特徴のひとつとしています。
それが、現代へとどのようにつながるのか? 本篇で確かめてください!


▼第4回:「からだが/で観る映像史 前篇」
watanabe_daisuke04A.pdf 直(PDF 2011.6.16 UP)
    「からだが/で観る映像史 後篇」
watanabe_daisuke04B.pdf 直(PDF 2011.6.16 UP)
今回は、観客の身体から、またはキャラクターの身体から考える映像史を展開します。
映画研究の劇的なパラダイム転換をおさらいし、ジル・ドゥルーズ東浩紀が語る2つの身体をつなぎ、作品の内と外をシームレスにつなぐ『劇場版 神聖かまってちゃん』(入江悠監督)の特異な身体を見出すまでが前篇。 そこから初期映画と理想的な身体の関係へと遡り、映画黎明期のトンデモな(性)医学に驚嘆し、さらにはアダルトビデオの劇的な歴史を追いかける後篇、と時空間を跳び越えジャンルを跨ぐ現代映像論、大盛り上がりの第4回です!


▼第3回:「「映像圏」の考古学」
watanabe_daisuke03.pdf 直(PDF 2011.4.22 UP)
これまでモバイルカメラやニコニコ動画TwitterWikileaksといった先端技術と映像(文化)の関係を論じてきたこの連載、ここで一転、過去に遡ってゆきます。
「映画」というと、ふだん観ている「物語映画」を思い浮かべがちですが、その前には、猥雑ともいうべき「映画」が無数に作られていました。活動弁士によって物語は書き換えられ、ディズニーランドも驚きのアトラクション性に満ち、観客たちが大騒ぎして楽しむ「映画」……ぼくたちの知る「映画」とは別物の、しかし魅力的な映画史が語られます。
そんな初期映画と映像圏の関連とは? つづきは本文で!


▼第2回:「Twitterの「ポジティヴィテ」」
watanabe_daisuke02.pdf 直(PDF 2011.1.21 UP)
今回はタイトルどおりTwitter、なかでもRT(retweetリツイート)を中心に進みます。
Twitterを使いはじめの時期には、通常のツイートとの違いや使い方に悩んでしまうRTという引用機能ですが、ここでは、RTによく表われているリアリティ(の変化)を考察。さらにはそのリアリティを、Wikileaksや「尖閣映像流出」、いくつかの映像作品、小説、マンガにも見出していきます。
渡邉さんは「ユリイカ」2011年2月号〈特集*ソーシャルネットワークの現在〉では、いま話題のデビッド・フィンチャー監督「ソーシャルネットワーク」とFacebookについて、今回のものと深く関わる論考を寄せています。
普段ぼくたちが何気なく見ている風景にいかなる変化が起きているのか、今どんな社会にいるのかを考える足がかりとなるはず。あわせてご覧ください!


▼第1回:「擬似ドキュメンタリー、ニコニコ動画の映像美学」
watanabe_daisuke01.pdf 直(PDF 2010.7.20 UP)  
渡邉氏は、日本映画史の研究者であり、かつ、映画のみならず純文学、本格ミステリライトノベルを横断的に論じる若手批評家。
この連載では、インターネットやモバイルカメラが登場・浸透して以降の、映画をふくむ映像をとりまく環境とその受容の変化を論じます。
第1回目は、「ブレア・ウィッチ・プロジェクト」「クローバーフィールド」といった擬似ドキュメンタリーと呼ばれるジャンルの映像作品と、動画共有サイトニコニコ動画で精力的につくられ、視聴されている「嘘字幕シリーズ」についてです。