シリーズ「日本"現代"文学の、標的=始まり」について

早稲田文学6」の目玉企画、大江健三郎(ほぼ)全小説解題の「立ち読みページ」をつくりました! 特別PDFをダウンロードすることができます。http://www.bungaku.net/wasebun/pdf/oe_kaidai_tachiyomi.pdf


この企画についてご説明する前に、ここに至る大型シリーズ企画をご紹介します。早稲田文学では、シリーズ「日本"現代"文学の、標的=始まり」を第4号からつづけています。企画趣旨として、同号のトビラの文章を引用します。

早稲田文学 4号

早稲田文学 4号


 いくぶん(この雑誌にとって)私的な回想から始めよう。2004年の春から1年間、【The end of the Literature 文学の、終り=目的】と銘打ったシリーズがあった。柄谷行人近代文学の終り」から始まった、遠い昔にも思えるその企画は、結局のところ、私たちのよく見知った、そして(「ポスト・モダン」という名の遊戯も含め)永遠に続くかに思われていた「近代」と呼ばれる時代の曲がり角に、その落とし子であり生みの親でもあった「日本近代文学」――それこそが、現存最古の文芸雑誌としての「早稲田文学」の並走してきた歴史でもあるわけだが――の踊り場を(それが何合目かの平地なのか、それとも終着点かという問いとともに)見いだそうとする試みのひとつだった。
 もちろん終わりは目に見えるものではないし、一朝一夕に行われるものでもない。まして(「近代文学の終り」がきわめて繊細にそれを語っていたように)特定の誰かが宣言する類のものでもない。けれども、ネットワーク・テクノロジーの普及によって世界が様変わりしてゆくこの10年を経て、「近代文学」が行使していた機能と枠組みがかつての効力を失いつつあることは、いまや多くの者の目に――とりわけデジタル・ネイティヴと呼ばれる世代には――明らかだろう。
 だが、それが「文学」の終わりを意味するものでないことも、むろん言うまでもない。枠組みが終わろうとする瞬間にこそ、終わることのないその中心=目的が、当然の存続を信じていた時代には忘れられていた「文学とはなにか」が、くっきりと浮かび上がる。
 「近代文学」から「近代」の拘束衣をはずすこと。あるいは、それ以前との比較において「「近代」なる時代の特質」とされていたもののなかに、その以前と以後とを問わず通底するもの――現実に訪れた「ポスト・モダン」においてなお失われぬもの――を見いだすこと。そこにこそ「文学」があり、その「中心=目的」があり、未来がある。
 ならば、いかにして「近代」の拘束衣を解除するのか。無数の試行錯誤とともにあるだろうその方法のひとつは、「近代」と不可欠に結びついた「国民国家」の枠組み、「日本近代文学」の「日本」をはずすことだ。ネットワーク化した社会の情報のやりとりにおいてすでにはずれつつあるその枠を、文学においても積極的に解除すること。すなわちそれは、「日本文学」を「(世界)文学」へと書き替える道筋を求めることにほかならない。
 ここからのシリーズ特集「日本?現代?文学の、標的=始まり」では、すでに「世界文学」とされている日本の現代作家と作品を辿る(それがどのように受容され、あるいは受容されざるかも含め)ところから、その手がかりを探すことになる。一方では受容の様態を、他方では作品そのものを、国内の、そして国外の書き手/読み手たちが重層的に読解してゆくことで炙り出されるものはなにか。その模索の先に目指すのは、もちろん、「日本文学」としての作品が、そこから生まれることにほかならない。


以上の文章とともに、第4号では「§1出発点としての"大江健三郎"」と題し、日本と海外の大江論を並べました。近年、アメリカの比較文学者デイヴィッド・ダムロッシュ『世界文学とは何か?』を嚆矢として、「世界文学と国民国家文学」、「世界文学と翻訳」が盛んに議論されるようになっていますが、それともつながるラインナップです。

◆日本で読む大江
安藤礼二「大いなる森の人――大江健三郎論」
古谷利裕「極限で似るものたちがつくる場――「四万年前のタチアオイ」と「茱萸の木の教え・序」をめぐって」
野崎歓「父と子――大江健三郎的小説の源泉」
福嶋亮大大江健三郎の神話装置――ホモエロティシズム・虚構・擬似私小説
武田将明「自分自身からの亡命者――『水死』と晩年性」
芳川泰久「小説に現在おこっていること――大江健三郎の〈おかしな二人組〉へ/から」

◆世界が読むOE
ノラ・ビーリッヒ「鎖をつけて踊る――ある翻訳者の考察」 【訳・松永美穂】(ドイツ)
久山宏一「本当のことを云おうか――ポーランド大江健三郎大江健三郎ポーランド
真島一郎「空白の地から――大江健三郎とアフリカ」
アダマ・ソウ・ジェイ 【訳・真島一郎】「遠いセネガルの私――大江健三郎、あるいは人間の魅惑的な発見」
アレクサンドル・チャンツェフ 【訳・貝澤哉】「叫びと応答の時代――ロシアにおける大江健三郎
徐恩恵「大江健三郎と私」(韓国)
閻連科 【訳・桑島道夫】「ポリフォニックな語り・重なり合いと照応その構造への鑑賞分析――『蟖たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』を例として」(中国)
桑島道夫「絶望に始まる希望と小暗い情念――中国における大江文学」
柴門明子「大江健三郎ポルトガル語で読む」(ブラジル)


同号の「震災に。」という特集内の「世界の被災地から」では、チェルノブイリ、チリ、カンタベリー、四川、スマトラなど、さまざまな災害に遭った後で人々が語り書き綴った言葉をとりあげる企画を組みました。大江作品にも頻繁にカタストロフが描かれていることもあって、意図せず通底した特集となりました。


つづく第5号は「§2オオエからハルキへ」と題して、二人の特集を行いました。ふたたびトビラの文章を引きます。

早稲田文学5

早稲田文学5


 2000年代の日本文学に変化を見いだすとしたら、村上春樹の受容のされかたはその最大のひとつであるはずだ。一方では、90年代以降の日本発の小説のなかで村上春樹が頭ひとつもふたつも抜けたことが単純な事実としてあきらかになり、他方で、そのように村上春樹が読まれる構造に、世界が変化していったのだとも言える。
 しばしば引用・参照されるように、柄谷行人村上春樹には構造しかない(だからこそ世界で読まれうるのだ)と言い、蓮實重彥が村上春樹は結婚詐欺である(彼が提示する同調の期待にひとびとはやすやすと騙される)と言った、それぞれの言葉の意味が変わったわけではない。変わったのは世界のほうなのだ。
 電子情報の優越と、それに呼応するかたちで社会が組み換えられてゆくなかで、20世紀よりもはるかに、世界は構造が支配し、同調の期待に覆われつつある。それを是とするならばもとより、是としないとしても、訪れつつある事態をただ否定するのではなく否認=認めつつ抗うことでしか、戦線を構築することはできない。一般には「状況にもっとも遅れて処する」と言われる小説が、しかし(村上春樹をけっして無視しきれないことによって)そのような状況に早々と、そして深刻に直面したのが、2000年代の日本文学だった。村上春樹そのひとがどこまで自覚していたかは本人しか知りようがないが、期せずして、時代が(そして世界の構造が)村上春樹に追いついてしまったのだ。
 そうして、そのことを実感しているのが、かつて村上春樹と競合し、ときに侮り、そしてときに事実その作品に勝るとも劣らない作品を書いてきた(という自負のある)小説家やそれに並走する批評家、読者たちの世代ではなく、社会構造の変化の直撃を受け、あるいは所与のものとしてそれを受け止めざるを得なかった年少世代だったことは言うまでもない。私(たち)の愛する数多の小説群ではなく、なぜ村上春樹ばかりが、あれだけ読まれ続けるのか。小説のジャンルにとどまらず、他ジャンルのコンテンツにも影響を与えうるのはなぜなのか。それが「構造しかない」がゆえだとして、社会そのものが構造しかなくなってしまった先で、「文学」はどう機能し、どう生きるのか。
 「近代文学」から「近代」の拘束衣を脱がし、近代的国民国家の枠組みに依拠する「日本文学」から「日本」の文字を外して、「(世界)文学」へと書き換える道筋を探す本シリーズの第二回は、大江健三郎について考え続けつつ、村上春樹をめぐって試みられる。
 両者をめぐるいくつかの批評に加え、村上春樹が盛んに読まれるタイと中国からは、ブームとともに村上作品を読んできた小説家に、その読書体験から発想される短篇を書いてもらった。プラープダー・ユンは73年バンコク生まれ。自分は宇宙人だと思い込む非モテ・オタクが、現実逃避と直視をくり返した結果、より強力な虚構を立ち上げてゆく長篇『パンダ』ほか、いくつかの邦訳がある。田原は85年武漢生まれ。過酷な受験戦争のさなか、現実と幻想を不安定に揺れ動く少女の逼迫感を描く長篇『水の彼方』が日本語で読める。国境を隔て、文化も言語も異にするはずの年若い読み手であり書き手である彼や彼女に「ハルキ・ムラカミ」がどう映ったのか――楽しみつつ読んでいただきたく願う。


ご覧のとおり村上春樹へシフトを移していますが、第5号では、批評の連載がそれぞれ大江について論じています。

▼オオエについて考えつづける
大杉重男ディアスポラの不可避性と不可能性――日本人の条件(最終回)」
石川義正「大江健三郎のふたつの「塔」――小説空間のモダニティ(3)」

村上春樹特集では、タイと中国の若手作家によるトリビュート短篇が並びます。村上春樹の小説が、アジア、ヨーロッパ、南北アメリカで熱心に読まれているのは周知の通り。それぞれどのように読まれているのか、どの作品が評価が高いのかという点も徐々に明らかにされつつあります。では、作家には、創作にはどのような影響を与えているのか。それを見るべく、村上に影響を受けたと思しき若手作家に依頼し、村上にインスパイアされた短篇を書いていただきました。

▼海外作家はハルキをどう読み、書くか
プラープダー・ユン【訳・宇戸清治】「月の国の神と悪魔」(タイ)
田原【訳・泉京鹿】「いるかホテル」(中国)

他方、村上論も海外からの視線で書かれたものです。
▼海外のムラカミハルキ
辛島デイヴィッド「孤独でセレブな長篇作家 HARUKI MURAKAMI」
河野至恩「イスラエルの読者と読む村上春樹、そして「世界文学」 ――「壁と卵」を越えて」


さらに、§2.5として「翻訳という未来」という特集も組みました。今号からセース・ノーテボーム「儀式」、タチヤーナ・トルスタヤ「クィシ」、ドン・デリーロ「ホワイトノイズ」、アラン・ロブ=グリエ「もどってきた鏡」の4作の翻訳小説の連載開始にあたり、総勢12名の翻訳家による座談を行いました。

▼座談会
泉京鹿+岩本正恵貝澤哉+辛島デイヴィッド+きむふな +武田千香+堤康徳+都甲幸治+松永美穂+柳原孝敦+芳川泰久青山南(司会)
「十二人の優しい翻訳家たち――グローバルに移動する小説を追いかけて」

▼コラム
ヤマザキマリ「ガルシア=マルケス偏愛」

▼座談会
望月哲男+松下隆志+貝澤哉「リプス! リプス! リプス!――ウラジーミル・ソローキン『青い脂』刊行記念座談」

▼大型翻訳新連載
セース・ノーテボーム 【訳・解説・松永美穂】「儀式」
タチヤーナ・トルスタヤ 【訳・貝澤哉・高柳聡子】「クィシ」
ドン・デリーロ 【訳・解説・都甲幸治】「ホワイトノイズ」
アラン・ロブ=グリエ 【訳・解説・芳川泰久】「もどってきた鏡」


そして、第6号につながるわけですが、そちらはまた次の更新に譲ります!