「早稲田文学4」特集について

しばらくぶりの更新になりました。4号発売後にすぐ編集作業に入った「WB」vol.24を来週半ばごろにお届けできる予定です。また、英訳チャリティも順次、公開していきます。

さて、「早稲田文学4」発売からひと月が経ちました。読者のみなさんからの反応を拝読し、ふたつの特集の主旨、とくに新シリーズ「日本“現代”文学の、標的=始まり」のほうが目次だけでは伝わりにくいかもしれないと思いました。そこで、本誌収録の両特集の扉文を公開することにしました。
「日本“現代”文学の、標的=始まり」は末尾にある通り、早稲田文学としては久しぶりに、論文を公募します。ふるってご応募ください! 意欲作をお待ちしています。(本誌掲載の応募要項では、応募先のメールアドレスが誤っていました。訂正しお詫びもうしあげます。)


◆特集*震災に。(PDF版をこちらからご覧いただけます)
 2011年3月11日という日付を、この半年、私たちはどれだけ目にしただろう。そして、そのたびになにを考えたか。あるいは、なにを考え続けただろうか。
 震災と原発事故から半年、ひとつの(あるいはふたつの、そして無数の)出来事をめぐって、私たちは気づけばあまりに多くの言葉に触れてきている。
 みずからが目にしたこと、耳にしたこと、考えたことを伝えるための、さらには直後の呆然とした沈黙の記憶を埋め合わせるように、あるいは言葉に触れ続けることで現実から逃れるように―つまりは、あの3月11日に起きた/3月11日から起きている大きな出来事に対峙するための――手段として、私たちは語り(家族や友人と、職場の仲間と、仕事相手と、行き合わせた見知らぬひとと)、読み(新聞を、雑誌を、手紙やメールを、ネットの記事を)、そして書いて(ブログを、手紙やメールを、原稿を、ネット上の言葉を)きた。
 手段として用いられた言葉のいずれもが、ときに私たちを昂らせ、ときに落ち込ませ、ときに哀しませ、ときに安堵させ共感させただろう。ときに沈黙すらも「反―言葉」としてやはり手段となったのだ。
 その先には、乾いた忘却や倦怠であれ、いまなお生々しい失意と怒りであれ、疲労と硬直と麻痺が訪れる。出来事ゆえにではなく、言葉が無数に用いられたことの反動ゆえに。
 それがとうに訪れ始めていることに、あなたもすでに気づいているはずだ。

 3月11日の後、そうした言葉の行き交いのなかで、もっとも臆病にしか振る舞えなかっただろう者たちがいる。言葉を目的として生きていたがゆえに、それを手段として用いることに躊躇い続けるしかなかった者たちが。「飢えた子供の前でなにができるか」という半世紀近く昔の問いを、それを問うことすら悩ましかった者たちが。
 それら躊躇いや問いかけに、わずか半年で答えが出ようはずもない。
 だが、言葉を目的としてきた彼らだからこそ、そこには言葉の疲労と硬直と麻痺に対して抗う術がある。忘却や倦怠を打ち消し、失意と怒りを鎮め、生々しさを言葉に取り返す術がある(それがないのならば、やめてしまえばよい)。
 闘争の、巡礼の、探求の一歩は、そこから始まる。


▼特集*震災に。もくじ
【グラビア】
篠山紀信 「ATOKATA」序章
【対談】
古川日出男重松清 牛のように、馬のように――「始まりの言葉」としての『馬たちよ、それでも光は無垢で』をめぐって、そして「始まりの場所」としての福島/日本をめぐって、
【小説】
古川日出男 家系図その他の会話
重松清 また次の春へ――盂蘭盆
阿部和重 RIDE ON TIME
川上未映子 三月の毛糸
松田青子 マーガレットは植える
牧田真有子 合図
【座談会】
阿部和重川上未映子斎藤環+辛島デイヴィッド+市川真人 震災と「フィクション(言葉・日常・物語…)」との「距離」
【論考】
十重田裕一 被災した作家の表現とメディア――新感覚派関東大震災
西田亮介 東日本大震災からたどる特別な場所の、特別な記憶
武田徹 嘘が倫理を帯びる条件――『再臨界』を巡って
後藤繁雄 三・一一/写真/アート
【世界の被災地から】
松本妙子 先を歩む人々――チェルノブイリの生と死と愛
パブロ・ネルーダ  松本健二 訳・解説 天変地異
本浜秀彦 “集団自殺”するクジラと「鯰絵」的想像力
福島香織 四川大地震から生まれた文学――プロパガンダと哀悼
柏村彰夫 ただ悲嘆だけでなく――インドネシア短篇小説に描かれた被災者イメージの諸相


◆特集*シリーズ【日本“現代”文学の、標的=始まり】§1 出発点としての“大江健三郎(PDF版をこちらからご覧いただけます)
 いくぶん(この雑誌にとって)私的な回想から始めよう。2004年の春から1年間、【The end of the Literature 文学の、終り=目的】と銘打ったシリーズがあった。柄谷行人近代文学の終り」から始まった、遠い昔にも思えるその企画は、結局のところ、私たちのよく見知った、そして(「ポスト・モダン」という名の遊戯も含め)永遠に続くかに思われていた「近代」と呼ばれる時代の曲がり角に、その落とし子であり生みの親でもあった「日本近代文学」――それこそが、現存最古の文芸雑誌としての「早稲田文学」の並走してきた歴史でもあるわけだが――の踊り場を(それが何合目かの平地なのか、それとも終着点かという問いとともに)見いだそうとする試みのひとつだった。
 もちろん終わりは目に見えるものではないし、一朝一夕に行われるものでもない。まして(「近代文学の終り」がきわめて繊細にそれを語っていたように)特定の誰かが宣言する類のものでもない。けれども、ネットワーク・テクノロジーの普及によって世界が様変わりしてゆくこの十年を経て、「近代文学」が行使していた機能と枠組みがかつての効力を失いつつあることは、いまや多くの者の目に――とりわけデジタル・ネイティヴと呼ばれる世代には――明らかだろう。
 だが、それが「文学」の終わりを意味するものでないことも、むろん言うまでもない。枠組みが終わろうとする瞬間にこそ、終わることのないその中心=目的が、当然の存続を信じていた時代には忘れられていた「文学とはなにか」が、くっきりと浮かび上がる。
 「近代文学」から「近代」の拘束衣をはずすこと。あるいは、それ以前との比較において「「近代」なる時代の特質」とされていたもののなかに、その以前と以後とを問わず通底するもの――現実に訪れた「ポスト・モダン」においてなお失われぬもの――を見いだすこと。そこにこそ「文学」があり、その「中心=目的」があり、未来がある。
 ならば、いかにして「近代」の拘束衣を解除するのか。無数の試行錯誤とともにあるだろうその方法のひとつは、「近代」と不可欠に結びついた「国民国家」の枠組み、「日本近代文学」の「日本」をはずすことだ。ネットワーク化した社会の情報のやりとりにおいてすでにはずれつつあるその枠を、文学においても積極的に解除すること。すなわちそれは、「日本文学」を「(世界)文学」へと書き替える道筋を求めることにほかならない。
 ここからのシリーズ特集「日本?現代〞文学の、標的=始まり」では、すでに「世界文学」とされている日本の現代作家と作品を辿る(それがどのように受容され、あるいは受容されざるかも含め)ところから、その手がかりを探すことになる。一方では受容の様態を、他方では作品そのものを、国内の、そして国外の書き手/読み手たちが重層的に読解してゆくことで炙り出されるものはなにか。その模索の先に目指すのは、もちろん、「日本文学」としての作品が、そこから生まれることにほかならない。

 シリーズ特集「日本“現代”文学の、標的=始まり」では、今号の第1回で大江健三郎(1)、次号の第2回で大江健三郎(2)&村上春樹(1)…と、扱う作家が重なってゆきます。大江健三郎村上春樹、あるいはそのほかの現代作家についての国内外からの気鋭の投稿もお待ちしています。メールでwbinfo(at)bungaku.netあてにお送りください。採用させていただく場合はメールにてご連絡いたしますので、氏名(本名)も忘れずにご記載ください。


▼シリーズ【日本“現代”文学の、標的=始まり】§1 出発点としての“大江健三郎
【日本で読む大江】
安藤礼二 大いなる森の人――大江健三郎
古谷利裕 極限で似るものたちがつくる場――「四万年前のタチアオイ」と「茱萸の木の教え・序」をめぐって
野崎歓 父と子――大江健三郎的小説の源泉
福嶋亮大 大江健三郎の神話装置――ホモエロティシズム・虚構・擬似私小説
武田将明 自分自身からの亡命者――『水死』と晩年性
芳川泰久 小説に現在おこっていること――大江健三郎の〈おかしな二人組〉へ/から
【世界が読むOE】
ノラ・ビーリッヒ 松永美穂 訳 鎖をつけて踊る――ある翻訳者の考察
久山宏一 本当のことを云おうか――ポーランド大江健三郎大江健三郎ポーランド
真島一郎 空白の地から――大江健三郎とアフリカ
アダマ・ソウ・ジェイ 真島一郎 訳 遠いセネガルの私――大江健三郎、あるいは人間の魅惑的な発見
アレクサンドル・チャンツェフ 貝澤哉 訳 叫びと応答の時代――ロシアにおける大江健三郎
徐恩恵 大江健三郎と私
閻連科 桑島道夫 訳 ポリフォニックな語り・重なり合いと照応その構造への鑑賞分析――『蟖たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』を例として
桑島道夫 絶望に始まる希望と小暗い情念――中国における大江文学
柴門明子 大江健三郎ポルトガル語で読む


早稲田文学 4号

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